ブレッドボードラジオBCL関係

「ラジオ・もうひとつのアメリカ史」

 「ラジオ・もうひとつのアメリカ史」は、1991年にアメリカのフロレンタイン・フィルムズが制作したドキュメント番組です。1994年8月5日と12日の両日、NHK教育テレビ「海外ドキュメンタリー」で放送されました。ラジオの発明とその後の発展に貢献した3人の人物の生涯を客観的な視点で描いた番組です。

 以下は、同番組のナレーションと関係者のコメントの部分を採録したものです。

1. 発明競争

 1920年代、アメリカで本格的なラジオ放送が始まりました。人々はラジオの音楽に合わせて踊り、ラジオドラマの話題に花を咲かせるようになります。誰もがラジオに釘付けでした。ラジオはアメリカの家庭に新しい世界を運び込んだのです。

 イタリアの発明家マルコーニ。彼は無線電信装置の発明者でラジオの父とも呼ばれています。しかし大衆メディアとしてのラジオの発展は3人のアメリカ人の貢献なしには語れません。

 リー・ド・フォレスト。貧しい牧師の家庭に育ち、自己顕示欲の強かった彼は、自分こそラジオの父と呼ばれるにふさわしいと信じていました。

 エドウィン・ハワード・アームストロング。彼はスピードと高い場所を愛し、エジソンのように発明によって人々の生活を豊かにしたいと願っていました。しかしその生涯は苦労が多く報われないものでした。

 デビッド・サーノフ。ロシアからアメリカに移住し、努力で成功を勝ち取った実業家です。彼は無線通信に無限の可能性を見出し、ラジオを大衆メディアとして発展させる上で大きな役割を果たしました。

 発明家 リー・ド・フォレスト

 リー・ド・フォレストは1873年、アイオワ州カウンシルブラフスに牧師の子として生まれました。父親が、解放された黒人のための学校で校長をしていた関係で、彼はアラバマ州タラテガで育ちます。彼は黒人白人どちらの子供たちとも打ち解けることができませんでした。孤独な少年はひとり図書館にこもり、新しい発明品で埋め尽くされた特許庁の報告書を読みふけっていました。アメリカでは発明家は英雄でした。ド・フォレストは自分も発明家になろうと決心します。牧師にしたいという父親の願いはかないませんでした。

 ド・フォレストは何かにつけ自分は他の生徒とは違うのだと主張し、級友たちを田舎者で無知で下品な連中と見下しました。中学、高校と進んでもまわりとは馴染めないままでした。級友たちはそんな彼を「サル顔」と呼んでいました。

 イェール大学シェフィールド科学学部機械工学科に進んだ彼は、一回の食事に15セント以上使わず、毎朝4時に起きて芝刈りのアルバイトをし、なおかつ優秀な成績を修めるという学校生活を送ります。そしてこの間にも彼は富と名声を夢見て次々と発明をしました。チェーンのない自転車、ズボンプレッサー、耳掃除器などなど・・・。メーカーが製造を引き受けてくれたものはひとつもありませんでしたが、気にもとめませんでした。自分の才能をまるで疑わず、いつか300以上の特許をとってみせる、彼はそう心に誓っていました。

 大学時代彼はクラスの投票で一番の嫌われ者に選ばれています。しかしそんな結果はド・フォレストにとってどうでもいいことでした。彼の頭は電波のことでいっぱいでした。当時はドイツの物理学者ヘルツによって電波の存在が実証されたばかりでした。そして電波を利用した通信技術の開発競争が始まります。

 1896年、イタリアのマルコーニがおよそ15km離れた場所に無線でモールス信号を送る実験に成功しました。3年後マルコーニ無線通信社はアメリカにまで事業を拡張します。そして船や港に無線装置を取り付け、マルコニグラムとよぶ無線通信の技術を広めて富を築きました。

 ド・フォレストはマルコーニに宛て就職を依頼する手紙を書きます。しかし返事は来ませんでした。このときド・フォレストは、いずれは発明でマルコーニを凌ぐ富を築こうと誓います。そして1904年の夏、ド・フォレストはセントルイス国際見本市の会場で高さ90mの塔の上にいました。彼にとって幸せな夏でした。スペード・ディテクターと名付けた無線受信機を発明し、大賞と金メダルを取ったのです。

 ド・フォレストの快進撃は続きます。その後まもなく彼がニューヨークのコーニーアイランドに造ったド・フォレスト電信局が、アイルランドに572語の言葉を送信するのに成功しました。

 1906年ド・フォレストはルシル・シェアドンという女性の心を射止めました。彼女の家に受信機を置き、ラブコールを送り続けた末の成果でした。新聞は「無線でプロポーズされた初めての花嫁」と大きく取り上げ、二人を祝福しました。しかしこの結婚は失敗でした。ルシルは夫の研究にはまったく理解を示さず、夫婦生活を拒み、ついには裕福な醸造家との交際がド・フォレストの知るところとなってしまいます。ルシルは財産にしか興味がなく、ド・フォレストは屈辱感に打ちのめされて離婚します。

 一方世間ではド・フォレストが他人の発明を盗んで成功しているという噂がささやかれ始めていました。遡って1903年、ド・フォレストはカナダ生まれの発明家R・フェッセンデンの研究所を訪れ、エレクトロリティック・ディテクターという装置を見ていました。フェッセンデンは、自分のアイディアをド・フォレストが盗み、無線受信機スペード・ディテクターを完成させたと訴え、裁判で勝ちます。裁判に負けたド・フォレストは財産も名誉も失いました。手元に残った発明品はオーディオン・チューブと名付けた小さな装置だけでした。これがラジオ放送に必要な真空管の原形となるのですが、当時のド・フォレストはその価値にまだ気付いていませんでした。

(テレビ番組 "This Is Your Life" から)
(司会者)「これはラジオに使われた3極真空管第1号です。ラジオに始まり、テレビや電話の発展に貢献したこの魔法の種は、ある偉大な人物の発明です。今日、その方をスタジオにお招きしました。史上最高の発明家ド・フォレスト博士です」
(ここでド・フォレストが登場)
(司会者)「 1906年も博士は寝食を忘れて発明に打ち込まれ、人の声を運ぶ無線を作ろうと熱意にあふれておられた。そして3極真空管が生まれました。1907年10月、忘れられない日が来ます。博士は実験室に女性歌手を呼び、歌うよう頼んだ。彼女こそ世界で始めてラジオに流れた歌声の主、ユージニア・ファラーさんです」
(ユージニア・ファラー登場、ド・フォレストと対面する)
(司会者)「ラジオ初のアナウンサーは誰だと思いますか」
(ファラー)「ド・フォレスト博士が私の歌をラジオで紹介して・・・」
(司会者)「博士こそラジオアナ第1号ですね」
(ファラー)「私の歌の後レコードもかけたからディスクジョッキー第1号でもありますよ」

 ド・フォレストはいち早くラジオを使って声や音楽を一般家庭に届けることを考えついていました。イタリアのマルコーニは電波による無線通信の可能性を開きましたが、ド・フォレストは1対1の通信という形ではなく、ひとつの場所から大勢の受信者に向けてメッセージを送りたいと考えていました。

「ド・フォレストは電波を使い、ラジオという小さな箱を通してアメリカ中の家庭にオペラが届くようにしたいと言っていました。そうやって富と名声を得たいと考えていたんです」 (G・タイン : 作家)

 しかし、またもフェッセンデンがド・フォレストの先を越します。1906年のクリスマス、フェッセンデンはマサチューセッツ州の実験局からクリスマスを祝うメッセージとバイオリンの音楽を電波に乗せ、航海中の船に送ります。これがおそらく世界初のラジオ放送だろうといわれています。ド・フォレストはフェッセンデンの成功を気にとめまいとしました。

 当時彼は新しく会社を設立し、再び恋に落ちていたのです。相手の女性ノラは男女同権論者の草分けエリザベス・スタントンの孫娘でした。1908年二人は結婚します。新婚旅行中、ド・フォレストはエッフェル塔から640kmも離れた群衆に向けて音楽を流し、新聞の見出しを大きく飾りました。彼はニューヨークに戻ると、今度はメトロポリタンオペラに出演中のエンリコ・カルーソの声を生で放送します。

 ド・フォレストは新しい妻のためにハドソン川の近くに豪邸を建てます。しかしノラは家にいようとはしませんでした。彼女は外で働くことを望み、またド・フォレストの共同経営者に強い猜疑心を抱いていました。1909年、娘ハリエットの誕生後二人は離婚します。それからまもなく、ド・フォレストの新しい会社は株に関するトラブルで詐欺罪に問われ、倒産します。裁判では100人に上る証言者が彼に不利な証言をしました。ド・フォレストは裁判沙汰でまたもどん底に突き落とされかけていました。

「裁判は大晦日まで続きました。1913年12月31日、人々がニューヨークで新年が明けていく興奮に大騒ぎしている間、ド・フォレストはじっと評決を待っていました。1月1日午前1時、評決は出ました。陪審員が法廷に戻るとド・フォレストは弁護士の腕の中に倒れてしまい、評決は彼の回復を待って読み上げられました。3件の詐欺罪については無罪、もう1件については見解が分かれて評決には至らなかったという内容でした。ド・フォレストは晴れて会社を再開できることになりました。彼はニューヨーク市の北にあるラジオ局から放送を再開しました。その後、発明家のエドウィン・アームストロングとの長い戦いが始まることになります」 (S・ダグラス : 作家)

 発明家 エドウィン・ハワード・アームストロング

「アームストロングの名があまり知られていないのは残念です。子供の頃よく『私の伯父さんがラジオを発明したのよ』と自慢しました。でも『伯父の名はエドウィン・ハワード・アームストロング』と言うと、『それ誰? 』って聞かれるんです。いまだにそうです。『アームストロング? それ誰? 』」 (J・ハモンド : アームストロングの姪)

「歴史を語るとき、20世紀最高の発明家としてアームストロングの名前を忘れてはならないと思います」 (F・ガンサー : エンジニア)

「アームストロングは最高の発明家だったと思います。忍耐力、知識、才能、すべてを備えていましたから。彼は自分の思い描いた通りの発明に行き着くことができた天才です」 (R・モリス : エンジニア)

「彼は非凡な人でした。高潔でいかにも発明家といった雰囲気があふれ出ていました。彼こそ本当の天才です。今の世の中、彼のようなタイプはあまりいません」 (L・ジョーンズ : エンジニア)

 エドウィン・ハワード・アームストロングは1890年、ニューヨークに生まれました。彼の少年時代は穏やかで幸せなものでした。父親は出版社の管理職でした。ニューヨーク州ヨンカーズの、ハドソン川を一望できる邸宅で家族に愛され、甘やかされて育ちました。リューマチ熱の後遺症があったせいかあまり人と付き合うことはせず、ほとんど家の中で過ごしていました。

 13才のとき、ちょうどド・フォレストがセントルイスの国際見本市で自作の受信機を売り込んでいた頃、アームストロングは一冊の本と出合います。エジソン、モールスといった発明家の偉業が記され、無線通信の先駆者マルコーニの名もそこにありました。アームストロングはまるで一本の糸に操られるかのように無線の世界にのめり込んでいきます。実験室でたくさんの装置に埋もれながら、より効果的な無線通信のシステムを開発しようと夢中でした。彼は、ニューヨークにいてフロリダやカナダからのメッセージを受信しようと、40m近い自分専用のアンテナ塔まで建てます。そしてすっかり高い場所が気に入り、よく塔のてっぺんまで登っては眺めを楽しんでいました。

 コロンビア大学に入学してからもアームストロングは自分の実験室から離れようとせず、バイクで大学と実験室を行き来しました。当時コロンビア大学の電気工学科は、28人の新入生のうち卒業できるのは15人という厳しさでした。ほとんどの教授はアームストロングのことを皮肉屋で扱いにくい学生と煙たがりました。しかし電磁波の分野の開拓者だったピューピン教授はアームストロングをかわいがり、彼の研究を助けました。

 アームストロングはピューピン教授の指導のもと、無線通信の研究を続けます。彼は以前ド・フォレストが作ったオーディオン・チューブに目を付けていました。オーディオン・チューブは、いわば真空管を用いたラジオ信号伝達装置でした。アームストロングはこれにヒントを得てラジオ受信機の性能を高める回路を作ろうと取り組み、成功します。

「夜中に突然、伯父が寝室に飛び込んできたんです。伯父は母を起こして、『やった ! やった ! 』と叫んで部屋中を踊りまわっていました」 (J・ハモンド)

 アームストロングは妹のエセルを起こし、腕に抱えた受信機から流れる音を聞かせました。それは弱々しい信号ではなく、耳をつんざくようなはっきりした音でした。このときアームストロングが受信機に取り付けた回路は真空管を通して電波を増幅させるものでした。彼はこれを再生回路と名付けます。再生回路の開発はラジオの歴史上注目すべき進歩となります。1913年アームストロングは再生回路を使った受信システムの特許をとります。彼は言っています。「再生回路はシンプルな発想から生まれ、電波の増幅は簡単に実現した」。

 同じ頃彼はもうひとつラジオの歴史上重要な発明をします。真空管発振回路というもので、これもド・フォレストが開発した3極真空管を利用したものでした。この回路によって、信号だけでなく声や音楽の送受信にも適したシステムが完成することになりました。

「電波の受信がずっと簡単になり、電波の届く距離もはるかに伸びました。こうしてラジオ放送の幕が開かれたのです」 (F・ガンサー)

 1914年1月31日の夜、ニュージャージー州ベルマーの無線小屋でアームストロングはマルコーニ無線通信社の主任検査員を前に受信機の実演をしてみせます。アイルランドやハワイ、サンフランシスコから送られてくる信号もはっきり大きな音で受信されました。主任検査員はその性能を評価し、マルコーニ社に特許使用権を認めるようにアームストロングに勧めます。この検査員の名はデビツド・サーノフと言いました。

 実業家 デビッド・サーノフ

「サーノフは、ド・フォレストやアームストロングと違って実業家でした。ラジオ放送の技術が国の将来にどんな意味を持ち、影響を与えるのかを読んでいたのです。サーノフは低い所から高い所へ見事にのし上がりました。彼は9才のとき移民としてアメリカへ渡ってきましたが、そのときは英語はひと言も話せませんでした。その少年が30年後にはRCAという大会社の社長になったんですから」 (K・ビルビー : 伝記作家)

 デビッド・サーノフは1891年、ロシアのミンスクにあるユダヤ人の村で生まれました。家族は彼がユダヤ教の指導者になることを望んでいましたが、彼の夢は新聞記者でした。1900年、9才のとき家族とともにニューヨークに移り住んだ彼は、ユダヤ語の新聞を売りながら、街のゴミ箱に捨てられた新聞を拾って英語の勉強を始めました。

「サーノフ少年は毎朝鉄道高架の下で目覚めました。電車の轟音が近づいてくると彼は飛び起き、転がるように階段を降りました。電車から新聞の束が投げられます。それを拾い、販売所に一番乗りで届けようと走り出す生活だったのです」 (K・ビルビー)

 14才になる頃にはサーノフは自分の新聞販売所を持ち、弟や父親にも販売所の仕事を提供するまでになっていました。その後彼はアメリカンマルコーニ社の雑用係となります。ユダヤ人という周囲のさげすみをものともせず、ファイルに綴じるよう命じられた手紙はすべて読み、暇さえあれば電報を打つ練習をしていました。

「みんな彼をからかってばかりいました。そしてやっかいな仕事ばかり押し付けたんです。でもサーノフは何でもきちんと処理しました。ですから初めは彼をばかにしていた周囲の人間もしだいに彼を認めるようになりました」 (E・バーノウ : 歴史家)

 社長のマルコーニが仕事場に顔を見せるとサーノフは必ず自己紹介をしました。「私はマルコーニと波長が合っていた」。後にサーノフは語っています。やがて彼はマルコーニの個人的なメッセンジャーとなり、街なかに住むマルコーニの愛人たちに花束を届ける仕事を与えられます。

 1912年4月14日・日曜日。イギリスの豪華客船タイタニック号が北大西洋上で氷山に衝突するという事故が起きます。近くを航行していた船が、タイタニック号が発する無線の遭難信号SOSをキャッチしました。そのおかげで大勢の命が救われたのです。この事故で無線通信の意義がクローズアップされます。その後アメリカでは大型船に無線の設備が義務付けられました。サーノフはこの事故のとき無線機の前に座り、次々と入ってくる情報を関係者に知らせていました。彼は後に語ります。「事故のとき無線を操った通信士は自分ひとりだった」。これがサーノフの神話をより大きくしました。新聞は彼のことを無線を操る天才と書きました。事故当時、図らずも無線通信だけでなくサーノフの働きにも注目が集まりました。これ以後彼は、生涯注目される存在であろうとします。

「アメリカンマルコーニ社で働いていた若い頃はサーノフもマルコーニと同じように無線通信を1対1の通信手段としか考えていませんでした。しかしサーノフはそこから発展させて、これを1対複数、言い換えれば大衆への通信手段として考えるようになりました。無線通信に新しい可能性を見出したんです。これが一般大衆向けのラジオ放送につながっていきます」(K・ビルビー)

 21才のとき、サーノフはマンハッタンを一望できるビルに新しいオフィスを与えられ、マルコーニ社の技術開発責任者に抜擢されます。彼はマルコーニに宛てた手紙の中で書いています。「私はラジオをピアノや蓄音機と同じようにどの家庭にでもある生活用品にしたいと考えています」。サーノフはアメリカ中の家庭にラジオで音楽を届けることも十分可能だと信じていました。さらにサーノフの手紙は続きます。「受信機はオルゴールのような感じのシンプルなデザインにすればいいでしょう。増幅管と拡声器を付ければヘッドホンも必要なくなります。そして1台75ドルで年間10万台のラジオが売れる時代が必ず来ると断言できます」。マルコーニからは何の返事もありませんでしたが、サーノフの意欲は衰えませんでした。

「子供の頃近所の人が、『ラジオって知ってるかい? 電線もない空中を電波が伝わって音が聞こえるんだよ』と教えてくれました。信じられなくて『そんなこと本当にできるの? 』と聞いた覚えがあります。当時近所の商店にラジオがあると聞いて見に行きました。箱形の装置がおいてありましたが、子供の私にはそれはアラジンの魔法のランプのように思えました。チャンネルを合わせるだけで、ボストンからもニューヨークからも放送が入りました。何とも言えない興奮でした」 (N・コーウィン : 作家)

 ラジオ放送のパイオニアたちは、自分こそがこの新しい分野をリードしようと懸命でした。ド・フォレストはこの頃ニューヨークのスタジオから毎日ニュースを流すようになっていました。しかし1914年、アームストロングが再生回路を発明したニュースにド・フォレストは激怒します。大学を出たばかりの若い発明家に先手を打たれた形でした。しかもアームストロングの回路はド・フォレストのアイディアにヒントを得たものだったのです。ド・フォレストはアームストロングに対抗してウルトラ・オーディオンと名付けた装置を作り、その特許を申請しますが認められませんでした。ド・フォレストは自分に言い聞かせます。「アームストロングの再生回路は元は自分のアイディアだ。だが自分には特許を申請する時間がなかっただけなんだ」。

「ド・フォレストとアームストロングの戦いは激しくなる一方でした。ド・フォレストの中には二人の人間が同居していました。饒舌で人を楽しませるのが上手な彼と、非常に攻撃的な彼です。ちょっとしたことでこの二面性が入れ替わってしまうのです」(G・タイン)

 1915年、ド・フォレストはアームストロングが発明を盗んだとして裁判を起こします。長い戦いの始まりでした。しかしこの訴訟は第一次世界大戦によって中断されます。連邦政府は終戦まですべての特許訴訟を凍結することを決定しました。海軍は毎週400人もの通信技師を養成し、無線通信に必要な部品の需要はとどまるところを知らず拡大していました。

 反ユダヤ主義のためサーノフは将校に任官されることはありませんでした。彼は戦時中もマルコーニ社に残って軍需契約を取り付ける仕事に腕を振るいました。また彼はこの間にリゼット・エルマンというフランス女性と結婚します。二人はお互いの母親のお膳立てで出会いました。しかしサーノフはよく話していました。「自分はフランス語がわからず、妻は英語がだめでどうしようもなかった」。1919年、新しいラジオ会社RCAがアメリカのマルコーニ社を吸収した際、サーノフはその営業部のマネージャーに抜擢されます。

 一方ド・フォレストは第一次世界大戦中、無線通信に必要な真空管や受信装置を海軍に売り、利益を手にしていました。さらにATT(アメリカ電信電話会社)に自分が持っている特許使用権を売って儲けようとします。そうすれば楽な生活ができる、家をきれいに飾って妻を大切にしよう、ド・フォレストはそう考えたのです。彼はすでに3度目の結婚をしていました。しかし妻は再婚当初からアルコール依存症で、これが3度目の離婚原因となります。

 当時ド・フォレストは20余りの会社を興していましたが、そのほとんどは倒産してしまいます。彼は窮地に立たされても大会社に雇われることを嫌い、一人で活動する道を選びます。ところがもはや発明家が一人で研究に取り組む時代は終わろうとしていました。科学者がチームを組んで会社に貢献する時代に変わりつつあったのです。ド・フォレストはこの現実から目をそむけました。

 アームストロングもまた一匹狼でした。第一次大戦中、彼は陸軍通信隊長としてパリに赴任します。そこで航空受信機の設計に取り組みました。この通信隊にいる間に、アームストロングは再び大きな発明をします。スーパーヘテロダインという回路を使った受信システムでした。これは送られてくる電波の周波数に受信機の中で発生させる別の周波数を混合し、その差の周波数が常に一定になるようにして電波を増幅する仕組みでした。このスーパーヘテロダイン回路によって受信機の感度は更に大幅に高まることになりました。

 デビッド・サーノフは即座にこのアームストロングの発明に商品化の価値があると判断しました。アームストロングのスーパーヘテロダインは必ずやRCAに大きな成功をもたらし、電子工学の新しい分野で会社を業界トップに押し上げる原動力となるだろうと考えたのです。この快挙でアームストロングは少佐に昇格します。ある新聞記者はアームストロングをこう称えました。「彼は幼児言葉しか話せなかったラジオにナイチンゲールのように歌うことを覚えさせた。アームストロングの名前はいつの日か必ずエジソンと並び称されるだろう」。

 しかしアームストロングはド・フォレストから発明泥棒呼ばわりされていました。アームストロングが歴史に名を残すためにはド・フォレストに勝たねばなりませんでした。そして1921年、アームストロングは再生回路をめぐる特許訴訟に勝利します。彼は晴れた日には、ブロンクスのド・フォレストの家からも見えることを承知の上で特許番号を記した旗を掲げ、勝利を祝いました。ド・フォレストには多額の賠償金が科せられましたが、支払い能力はありませんでした。アームストロングの弁護士は、賠償金の権利を放棄しド・フォレストに温情を示すように勧めます。しかしアームストロングはこれを聞き入れず、どんな合意書にもサインしようとしませんでした。

「アームストロングに関して私がひとつ言えるのは、彼の辞書には妥協という言葉はなかったと言うことです」 (R・モリス : エンジニア)

「彼は一徹な人で、こうと思ったら決して自分の信念を曲げようとしませんでした。この性格のせいで、いったんトラブルに直面すると折り合いをつけるのに大変な労力と時間が必要となってしまったものです」 (F・ガンサー)

 しばらくの間はすべてがアームストロングに味方しているかのようでした。彼は最初の発明、スーパーヘテロダインのアイディアをRCAに売り、RCA最大の株主となりました。またこの頃、アームストロングはサーノフの秘書マリオン・マキニスに恋をしていました。愛車に彼女を乗せ、ロングアイランドの高速道路を猛スピードでドライブしたり、高さ135mもあるRCAの受信塔に登ってみせたり、彼女の気を引くのに夢中でした。

「 伯父は高いところが好きでした。サーノフが式典をやっているときに、伯父は伯母のマリオンの気を引こうとして高い塔のてっぺんに登ったんです。二人はまだ結婚前で、伯母はサーノフの秘書をしていました。伯父は塔の上で手を放してみせ、いろいろなポーズを取って友達に証拠の写真を撮らせました」(J・ハモンド)

「アームストロングは自信に満ちていて性格的に派手なところがありました。私は彼のそんなところにとても魅力を感じていました。よくアンテナ塔に登って近所の人をはらはらさせていたようです。RCAのできた頃42番街のエオリアンビルのてっぺんについている球に登ったんです。これにはサーノフが激怒しました。アームストロングはときどきサーノフに逆らうような態度を見せることがありました」 (E・バーノウ)

 サーノフはアームストロングのとっぴな行為に眉をひそめ、しばらくRCAのオフィスから彼を締め出しました。しかしサーノフの秘書マリオンはアームストロングのプロポーズを受け入れました。アームストロングは花嫁に世界初の携帯用スーパーヘテロダインラジオを贈ります。

 電信術として始まった無線がラジオへと発展し、アメリカでは新しいラジオ産業が興りつつありました。歴史上初めて、マイクを通じて人間の声が多くの人に語りかけ、影響を与えられるようになりました。農夫が畑に種をまくように、ひとつの場所から政治、娯楽、宗教、広告等ありとあらゆる情報の種を国中にまくことができるメディア、それがラジオでした。1920年代、アメリカでは本格的なラジオ放送の時代が幕を開け、ラジオは急速に広まっていくことになります。

2. 成功と失意

「居間に座っているだけで遠くで話す人の声が聞こえるんです。音楽、ニュース、フットボールの試合、何でも聞こえるのが信じられませんでした」 (R・バーバー : ラジオアナウンサー)

 ピッツバーグのKDKAは初めて定期的なラジオ放送を開始した局です。KDKAは1920年、大統領選挙の開票結果を中継し、大きな反響を呼びました。ラジオ放送の技術はまたたく間に普及しました。大学や新聞社が放送の設備を持つようになります。銀行やデパートでも放送が行なわれるようになりました。ローカルの放送局も増えていきます。カンザス州ミルフォードのKFKB局ではブリンクリー博士の「ヤギの分泌物と性欲の関係について」と題した講義が1日3回も流されていました。

 1924年までには全米で1400のラジオ局が開設されていました。当時のラジオ受信機の売り上げは3億5千万ドル、アメリカ人が家具調度に使う費用の実に3分の1がラジオ受信機の購入にあてられた計算でした。1923年5月から10月の間にニューヨークのラジオ局が放送した内容は、ソプラノリサイタル340回、野球6試合、ボクシング5試合、教会ミサ67回、フットボール7試合、ハーモニカソロ10回、演劇40回、トークショーと講演合わせて723回、おとぎ話205回・・・。ついに番組の制作が放送に追いつかなくなってしまいます。あるとき困り果てたアナウンサーが「ニューヨークの街の音をお届けしましょう」と言ってマイクを窓の外に突き出しました。それでも聴衆は喜んだのです。

「ラジオは私たちの良い相棒といった存在になりました。一人ぼっちでもラジオをつければいつでも何か聞けました。ラジオの扉を開けてダイヤルを合わせるだけで、ニューヨークやシカゴの流行の音楽が聞けて退屈が紛れたものです。私がピアノのお稽古をやめたのもラジオのせいです。自分で弾かなくてもラジオで聞けましたから」(H・ケリー : ラジオキャスター)

 1926年、デビッド・サーノフは初めてラジオ放送網を組織し、NBCと名付けました。1927年、リンドバーグがパリへの歴史的飛行を終えて帰国しました。このときNBCは24州50局を結ぶ中継に成功します。アメリカ中で3000万人近い人々が英雄の帰国の様子を生で聞いたのです。

 一方、ラジオに貢献した二人の発明家ド・フォレストとアームストロングの間では特許をめぐる戦いが続いていました。ド・フォレストは裁判に疲れ果てていましたが、再びアームストロングを相手取った訴訟に踏み切ります。アームストロングの再生回路はド・フォレストのアイディアにヒントを得て開発されたものであり、アームストロングが特許を持つのはおかしい。ド・フォレストはそう主張を続け、最高裁の判決で勝利します。

 思いがけない逆転劇でした。ド・フォレストの逆転勝利は関係者の間に波紋を呼びます。アームストロングは再生回路の開発によって手にした富と名誉を突然奪い取られることになりました。彼は別の特許訴訟で再び法廷に立ちますが、これも最高裁で敗訴となってしまいます。こうして裁判所が二人に下した判決は13に及び、男たちの戦いは20年も続きました。最終的にド・フォレストに敗れたアームストロングは法制度に不信感を募らせたまま、研究の場に戻ります。

 アームストロングは再生回路を開発した当時、ラジオ工学技師協会から栄誉賞を受けていました。裁判で逆転負けしたアームストロングは1934年、協会の年次総会で賞を返上しようとします。しかし協会はこれを受け入れず、総会に出席した人々は逆にアームストロングに喝采を送りました。専門家たちは彼に同情的でした。

 今度はド・フォレストにとってすべてがうまく回り始めていました。裁判に勝ったことで破綻しかけていた事業が立て直せたのです。不遇の生活から開放されたド・フォレストはハリウッドに移り、21才の女優の卵マリー・モスキーニと恋に落ち、結婚します。当時ド・フォレストは57才、彼にとっては4度目にして最後の結婚でした。

 ド・フォレストとアームストロングが裁判で戦っている間、実業家サーノフは着実に出世街道を歩んでいました。1930年サーノフはRCAの社長に就任します。そしてロックフェラーセンターの一角にオフィスを構えました。彼は新聞を売り歩いていた少年時代と同じ貪欲さで仕事をしました。にこりともせず、部下に次々と指示を与え、会社を取り仕切ったのです。サーノフは成長するラジオ産業界の帝王になりつつありました。

「ラジオの父と呼ばれるマルコーニがイタリアから渡来してきてサーノフを訪れたときのことですが、二人とも同じような格好をし、ステッキを持って歩いていました。サーノフがマルコーニに合わせたんでしょうが、二人は実によく似ていました。サーノフは徐々にラジオの世界を支配下におさめていました。彼は冷徹で、目的のために力を結集する能力がずば抜けていたんです」(E・バーノウ)

 1930年代、人々の暮らしは恐慌に翻弄されました。フーバー大統領は当時歌手のルビー・バリーに言いました。「国民が恐慌を忘れる歌が歌えたら勲章ものだ」。

 恐慌は悪化の一途をたどりました。1933年フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任する頃には、不安におびえた人々が次々と預金を払い戻そうとして、銀行制度が崩壊しかけていました。大統領はラジオを通じて危機にどう対処すべきか国民に訴えかけます。大統領は「炉辺談話」と称したラジオ放送で政策を説明し、国民に直接語りかけました。当時人々は大統領の姿を見ながら声が聞こえるようにと、ラジオの横にルーズベルトの写真を置くようになりました。「炉辺談話」による世論操作の効果は絶大でした。

「聴取は現実の世界と区別がつかなくなるほど熱中してラジオを聞いていました。たとえばメロドラマの中で主人公に子供が生まれたりすると、局に山のように贈り物が届いたりしたんです」(N・コーウィン)

 ラジオは人々の教養のためにも役立ちました。サーノフはイタリアからトスカニーニを招き、NBC交響楽団を結成します。そのコンサートは1937年クリスマスの初演を皮切りに17年にわたってNBCの看板番組として続きました。当時一番の人気番組はエイモス・アンド・アンディの喜劇番組でした。しかしこの番組は白人が黒人に扮して笑い者になる内容でした。当時は、アメリカ人がもし何かを手放すとしたら冷蔵庫か電話、ベッドを選び、ラジオだけは守っただろうと言われました。

「当時我が家でもラジオを手に入れました。床置きタイプの大きなラジオで、柱や格子があってまるで建物のようでした。そのラジオにはすごい低音で響くスピーカーが付いていました。床にうつぶせになって寝転んで聞いていると、音は床を伝って腹に響いたものです。ラジオから聞こえる声の振動は体中を走り抜けました。子供の頃はよくそうやって朝は6時半頃から夜は遅くなって寝かされるまでラジオにかじりついていました。暗い部屋の中で大きなラジオの前に寝転がり、放送を聞いてばかりいたんです。チャンネルを合わせるこぶし大のつまみがあって、端から端まで回すのにずいぶん時間がかかったような気がします。家はミネソタでしたがソルトレイクシティの放送局やピッツバーグのKDKAの番組が受信できました。冬になると、たまにテネシー州ナッシュビルからの放送も入りました」(G・キーラー : 作家)

 FMの登場

 ラジオの時代を到来させた立役者たちは、実はあまりラジオを聞きませんでした。サーノフはRCAの社長業に忙しく、ド・フォレストは商業放送を嫌っていました。

「放送局の皆さんに言いたい。ラジオになんということをしてくれたのですか。くだらない音楽でぼろ布のような服を着せ、品性を失わせてしまったのです」(ド・フォレスト)

 アームストロングがラジオを聞かなかったのは、雑音がうるさかったからと、その雑音を取り除くためにコロンビア大学で研究に没頭していたからでした。

「サーノフは、雑音を取り除く装置ができないかとアームストロングに持ちかけました。それでアームストロングは実験室にこもって研究に取り組みました。何年もかかりましたが、研究は実を結びました」(E・バーノウ)

 1929年、アームストロングは周波数変調方式を発明します。それまでラジオはすべて振幅変調という方式で行なわれていました。振幅変調方式は略してAMと呼ばれました。AMでは捉えることのできる音の幅が狭く、ライブの時には音が割れましたが、これは仕方がないものとあきらめられていました。ある技師などは「雑音は貧乏と同じように必ず私たちに付きまとうものだ」と言っていたのです。しかしアームストロングはこの意見に反対でした。彼は雑音を取り除く方法が必ずあると信じていました。何度も実験を重ねた末、ついに彼は画期的な周波数変調方式を発明したのです。この方式はFMと呼ばれました。再生回路の発明以来15年ぶりに、アームストロングは再び快挙を成し遂げたのです。彼はこの頃コロンビア大学の教授になっていました。アームストロングは旧知のサーノフに援助を求めます。サーノフはFM方式の実験ができるようにエンパイヤステートビルの部屋を提供しました。

「当時私は実験に立ち会って報告するようにサーノフに言われ、アームストロングの実験室に行きました。アームストロングがまずAM方式の受信装置にスイッチを入れると音楽が流れてきました。しかし電波を妨害する装置にスイッチを入れるとひどい雑音で音楽が聞き取れなくなってしまいました。次に彼はFM方式の受信装置で同じことをしました。妨害装置にスイッチを入れても音楽はきれいに聞こえました」(L・ジョーンズ)

「FM方式の受信機で聞くと、のこぎりの音が横挽きなのか縦挽きなのか区別ができるほどでした。マッチを擦る音も、紙のマッチなのか木のマッチなのか音でわかってしまうんです」(F・ガンサー)

 デビッド・サーノフは受信機の音質を高める方法が考え出されるのを待っていました。アームストロングが発明したFM方式は音質を格段によくするものでしたが、それはサーノフが思い描いていたものとは違いました。彼は、FMはAMに対する反乱だと不快の念を表わしました。彼はアームストロングにエンパイヤステートビルの実験室を引き払うよう命じます。この部屋はやがて人々をあっと言わせる発明のために必要だったのです。

 1939年ニューヨークで国際見本市が開かれ、サーノフはRCAのパビリオンの前でテレビの開発を発表しました。サーノフは10年もの間技術者のチームを指揮し、夢をかなえようと研究を続けさせていました。RCAの5000万ドルの資金に支えられてテレビの開発は成功しました。テレビの登場はそれまでの放送の歴史を徹底的に変える出来事でした。一方ド・フォレストは、自分の発明した真空管があったからこそラジオもテレビも生まれたと主張し、自らを「テレビの祖父」と呼ぶようになりました。

「サーノフは、テレビの開発の資金をラジオ放送による莫大な収入に頼ってきました。アームストロングの発明したFM方式は従来のAM方式を脅かすと見たサーノフは、FMの実用化を阻止しようとしました」(E・バーノウ)

 サーノフからエンパイヤステートビルの実験室を追われたアームストロングは、一人でFMの研究を続けました。彼はニュージャージー州のアルパインの渓谷にFM用の130mの塔を建てます。この塔はRCAのサーノフのオフィスからも見えました。アームストロングは放送を開始し、多くのメーカーにFM受信機を製造させます。こうして人々はFMの音の良さを知り、FMは大ヒットします。アームストロングは勢いを得て仕事に没頭しました。

 後にサーノフはFM受信機の製造権を100万ドルで買おうと申し出ますが、アームストロングはそれを拒否しました。そしてRCAはラジオ1台毎にアームストロングに特許使用料を支払うことになるのです。やがてアームストロングのヤンキーネットワークを通じてFM放送を聞く人口は北東部一帯で50万人に達しました。FM放送はマサチューセッツからニューハンプシャーまでを駆け巡ります。ヤンキーネットワークはやがてサーノフのNBCに肩を並べるだろうと、アームストロングは期待をかけていました。しかしサーノフは懸命にFMを抑え込もうとしました。そのためFMは何年もの間、いかに革命的な発明であるか一般には理解されなかったのです。アームストロングとサーノフは今や憎みあう敵どうしとなりました。

「FM方式のほうがAMより優れていることは明らかでした。ではなぜ早くAMを廃止してFMに切り替えなかったのでしょう。それはAMがすっかり定着していたからです。あまりにも多くの人がAM専用の受信機を持っていて、大体のところそれで満足していました。しかしアームストロングは妥協を知らず、それが彼を追い詰めたのです」(R・モリス)

 1941年ハワイの真珠湾が日本軍の攻撃を受け、アメリカの太平洋艦隊はほぼ全滅しました。この事件によってラジオをめぐる戦いはしばらく棚上げとなります。ラジオは市民に選局を知らせる重要なメディアでした。第二次大戦が始まった時、ド・フォレストは68才でした。彼は新しい爆弾を発明しますが、将軍の前での実験に失敗し、国に貢献できないと落胆しました。アームストロングは自分が持つ特許を無償で政府に譲り、国に協力しました。サーノフはノルマンディー進攻のために通信システムの設計を指揮しました。

 戦後はFMをめぐる戦いが再燃します。平和の訪れはテレビ時代の幕開けともなりそうでした。

「広告会社はテレビに飛びつき、巨額の費用をつぎ込んでスポンサーとなりました。そしてテレビは驚くべき速さで普及しました。1954年から55年頃にはもうラジオは話題に上らなくなりました。ラジオで人気のあった番組はテレビ用に書き替えられ、残りは消えていきました」(K・ビルビー)

「ラジオの黄金時代は短いものでした。1920年代に急速に普及し人々に愛されたと思ったら、わずか20年ほどでテレビが登場し主役交代となってしまったのですから」(N・コーウィン)

 アームストロングは戦後も依然としてFMに固執していました。やがて連邦通信委員会はテレビの音声にFMを使用することを決定します。これはアームストロングに巨額の特許使用料が入ることを意味しました。しかしRCAのサーノフがアームストロングに対する特許使用料の支払いを拒否し、傘下の会社にも同調させます。RCAはFMをまねた回路を作り、それがRCA独自の発想で生まれたものだと主張しました。さらにサーノフは業界からアームストロングを追放しようと連邦通信委員会にまで働きかけた画策をします。アームストロングはRCAをはじめ彼の発明で大きな利益を得た会社を相手に特許侵害や独占禁止法違反で告発し、孤軍奮闘しました。

「アームストロングは法廷で何度も何度も同じ主張を繰り返さなければなりませんでした。訴訟にかけた労力と費用は大変な痛手になったと思います」(F・ガンサー)

 アームストロングは死ぬか一文無しになるまで戦い続ける覚悟でした。特許使用料による収入は減り、健康もむしばまれていました。でも彼は引き返すことはできなかったのです」

「彼は天才的な発明家でした。しかし数々のすばらしい発明をしたばかりに特許紛争に巻き込まれて苦しむことになりました。言ってみれば、彼は自分の才能によって破滅したんです。皮肉なことです」(D・レイモンド : アームストロングの友人)

 1953年までの間にアームストロングは訴訟に数百万ドルを費やしました。彼の弁護士は、勝つ見込みはあるがそれには10年近くかかると考えていました。その年の11月、感謝祭の日、長引く訴訟で蓄積された激しい疲労と緊張が、妻への怒りとなって爆発します。アームストロングの振り下ろした火かき棒がマリオンの右腕を直撃しました。マリオンは家を飛び出し、そのまま戻りませんでした。

「アームストロングは自分を追いつめ、借金は増える一方でした。彼はかつてRCAの最大の株主でしたが、その株を処分して巨大な組織と戦ったのです。彼は気力にあふれ、いつもぎりぎりのところまで神経を張りつめていました。しかしその緊張の糸が切れました」(K・ビルビー)

 1954年1月31日の日曜日はアームストロングが初めてサーノフの前で再生回路の実演をした日からちょうど40年目にあたりました。以前の二人はこの日を友情の記念日とし、毎年欠かさずに電報や手紙を交わしていました。1934年、20回目の記念日にサーノフはアームストロングに次のように書き送っています。「今後数十年の間に交わす手紙や電報が我々二人にとって活力の元となりますように。これからの20年間にさらなる若い心と情熱を分かち合おうではありませんか」。その20年が過ぎました。二人は敵となって争い、アームストロングが負けました。その夜アームストロングは妻のマリオンに宛てて手紙を書きました。それは「神の恵みがありますように。そして私の魂が救われますように」という言葉で結ばれていました。

 エドウィン・ハワード・アームストロングは高い所が好きでした。ヨンカーズの家の裏にあった40mの塔、ニュージャージー州ハリセーズ渓谷の絶壁、42番街のてっぺんに球の付いた塔は120mありました。これらの塔に登ることを、天才発明家は何よりも楽しんでいました。手紙を書き終えたアームストロングはコートとマフラーをまとい、帽子をかぶり手袋をはめました。それから窓を開けると13階の部屋から飛び降りたのです。翌朝、彼の遺体は3階のテラスで発見されました。

 「彼の死は私のせいではありません」。驚いたサーノフはすぐにコメントを発表し、部下を率いて葬儀に参列します。リー・ド・フォレストは公にコメントは出しませんでしたが、ライバルの最後の様子をさかんに知りたがったといいます。そして「自分はアームストロングと違い、まだまだ長生きしたい」ともらしました。

 ド・フォレストは「ラジオの父」と題した自伝を書きます。そして妻にも「私は天才と結婚した」という題で本を書かせようとしました。ハリウッドに自伝を売り込み、ノーベル賞を受賞すべく運動をするなど、有名人たろうとする意欲は衰えを知りませんでした。あるとき出版社が「カリフォルニア州ハリウッド、ラジオの父」とのみ宛名を記してド・フォレストへの手紙を出します。手紙がちゃんと配達されればド・フォレストが有名人であることの証拠になります。しかし手紙は受取人不明の判が押され、差出人に返送されました。1957年、ド・フォレストは激しい心臓発作に倒れます。そして1961年6月30日、ハリウッドの自宅で4番目の妻に看取られ、静かにその生涯を閉じました。銀行の口座には1250ドルしか残されていませんでした。

 デビッド・サーノフはある作家に彼を称える伝記を書くように依頼します。そして出来上がった作品に自画自賛の文章をいくつも書き加えました。その一方で彼はカラーテレビの開発に成功し、衛星通信技術の土台作りにも貢献しました。

「サーノフは名声が高まり、成功を重ねるに連れ、アメリカ産業界の指導者という地位にこだわるようになりました。彼は公の場での活動はすべて記録に残すようにと、驚くほど強く要求していました。歴史に名を残したいという気持ちは彼も人一倍だったのでしょう」 (K・ビルビー)

 サーノフは図書館を建て、彼の生涯にかかわった品を展示品として寄付しました。ここでは、ロシアから移り住み努力で富と名声を得た男の歩みが見られます。サーノフはアメリカンドリームをつかみました。彼は1971年、80才で世を去りました。

 アームストロングの未亡人マリオンは夫の後を継いで訴訟を継続し、すべてに勝利を勝ち取ります。これには実に15年の歳月が費やされました。彼女は生涯夫が買ってくれたニューハンプシャー州ライビーチの家に住み、40年前夫がプロポーズした時に乗っていた愛車を運転していました。しかしその車にラジオはありませんでした。

「ド・フォレスト、アームストロング、そしてサーノフ。3人はラジオのパイオニアとして世界を変えました。彼らの仕事は現在のテレビや電話のテクノロジーに受け継がれています。その発展を見たら3人とも驚くでしょうね」(E・バーノウ)

 ー終ー

 (2005年11月26日)